覚えていてもらうこと、知らないところで頑張ること。
2008年6月14日どうも、結城です。
昨日は、久しぶりに日吉にあるとある教会のワークショップに参加してきました。
この教会に行くのは2回目です。
どうやら、そこの牧師やゴスペルの指導者の方にも覚えていただけていた様子。
この先も、ちょくちょく顔を出したいなと思いました。
この件については、ハッキリ言えば自分の居場所探しです。
今までは、師匠やそのほかメンバーに守られている状態でした。
もちろん、私も一人というのは怖いので今まで知り合いがいるところでちょこちょこと教会やコンサートのお手伝いをさせていただいていたのですが、いい加減それもまずいだろうという考えのもとです。
あと、時々別のところで気分転換もしたいと思っていた、というのもあります。
ひとつのクワイアのよさに慣れてしまって、その良いところを魅力的に感じることができなくなるからです。
感想は、教会でやるゴスペルと、自主運営でやるゴスペルだとやはり違う点があるなと感じました。
違う点に関しては、制限などの問題もあるので割愛させていただきます。
私はゴスペルが好きです。
同時に、キリスト教にももちろん共感しています。
でも、それと同時に音楽としてゴスペルが好きです。
だから、いわゆる「アンチ・キリスト」的な曲も好きなものがありますし、だからといって腹を立てません。
友達が否定をしたら、その否定をさらに否定することはしません。
ここ数年で、わかってきたことも沢山あります。
だから、自分なりに気持ちを切り替えて歌ってきました。
その結果、今まで日本語のゴスペルはあまり好きではなかったのですが、歌いたいと思えるようになりました。
もちろん、まだノンクリスチャンのままで歌うことも抵抗がないわけではありません。
まして、表現が悪いですが、音楽を通して他人に布教しようなどという考えは一切ありません。
純粋に神様が、ゴスペルが好きなだけなのです。
ただ、それだけ。
さて、表題について。
最近、無性に「結城恵を知らない人の中にいきたい」と思うときがあります。
それは、切り離されたいっていう気持ちだけじゃなくて、どれだけ自分が誰かに頼らない状態でその中にいられるかっていうチャレンジの気持ちのほうが強いです。
かなり、おこがましいと思いますが、守ってもらうだけではだめだと感じたので。
本当は、もっと切磋琢磨するような環境にいたほうがいいのではないかとも思いますが、まずは一人になってみてからという状態です。
もし、何か自分で縁を見つけることができたら、ほかでも新しい道を開けるかもしれない。
待っているだけじゃなくて、もっと足を運ぶ必要があるんだ。
それこそ、出会いがあるはずだと思っているからです。
今まで支えてきてくださった方々が、嫌いだからという理由ではありません。
だから、あくまでも今は「KCCの結城」であって、横浜教会一番の甘えっ子には変わりないのです。
だけど、それだけではいい加減成長できないと感じました。
ほっとできる場所も必要だけど、それ以上に頑張る場所も見つけたいと感じました。
これから先、同じ場所にはとどまる事はできても、変化についていく必要があるから、それに耐えられるようになるため。
自分なりに歩んで生きたいと思います。
いきなりこんな重苦しい文章で失礼しました。
それでは、また今度。
昨日は、久しぶりに日吉にあるとある教会のワークショップに参加してきました。
この教会に行くのは2回目です。
どうやら、そこの牧師やゴスペルの指導者の方にも覚えていただけていた様子。
この先も、ちょくちょく顔を出したいなと思いました。
この件については、ハッキリ言えば自分の居場所探しです。
今までは、師匠やそのほかメンバーに守られている状態でした。
もちろん、私も一人というのは怖いので今まで知り合いがいるところでちょこちょこと教会やコンサートのお手伝いをさせていただいていたのですが、いい加減それもまずいだろうという考えのもとです。
あと、時々別のところで気分転換もしたいと思っていた、というのもあります。
ひとつのクワイアのよさに慣れてしまって、その良いところを魅力的に感じることができなくなるからです。
感想は、教会でやるゴスペルと、自主運営でやるゴスペルだとやはり違う点があるなと感じました。
違う点に関しては、制限などの問題もあるので割愛させていただきます。
私はゴスペルが好きです。
同時に、キリスト教にももちろん共感しています。
でも、それと同時に音楽としてゴスペルが好きです。
だから、いわゆる「アンチ・キリスト」的な曲も好きなものがありますし、だからといって腹を立てません。
友達が否定をしたら、その否定をさらに否定することはしません。
ここ数年で、わかってきたことも沢山あります。
だから、自分なりに気持ちを切り替えて歌ってきました。
その結果、今まで日本語のゴスペルはあまり好きではなかったのですが、歌いたいと思えるようになりました。
もちろん、まだノンクリスチャンのままで歌うことも抵抗がないわけではありません。
まして、表現が悪いですが、音楽を通して他人に布教しようなどという考えは一切ありません。
純粋に神様が、ゴスペルが好きなだけなのです。
ただ、それだけ。
さて、表題について。
最近、無性に「結城恵を知らない人の中にいきたい」と思うときがあります。
それは、切り離されたいっていう気持ちだけじゃなくて、どれだけ自分が誰かに頼らない状態でその中にいられるかっていうチャレンジの気持ちのほうが強いです。
かなり、おこがましいと思いますが、守ってもらうだけではだめだと感じたので。
本当は、もっと切磋琢磨するような環境にいたほうがいいのではないかとも思いますが、まずは一人になってみてからという状態です。
もし、何か自分で縁を見つけることができたら、ほかでも新しい道を開けるかもしれない。
待っているだけじゃなくて、もっと足を運ぶ必要があるんだ。
それこそ、出会いがあるはずだと思っているからです。
今まで支えてきてくださった方々が、嫌いだからという理由ではありません。
だから、あくまでも今は「KCCの結城」であって、横浜教会一番の甘えっ子には変わりないのです。
だけど、それだけではいい加減成長できないと感じました。
ほっとできる場所も必要だけど、それ以上に頑張る場所も見つけたいと感じました。
これから先、同じ場所にはとどまる事はできても、変化についていく必要があるから、それに耐えられるようになるため。
自分なりに歩んで生きたいと思います。
いきなりこんな重苦しい文章で失礼しました。
それでは、また今度。
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